この方は、センメルヴェイス先生。消毒法の先駆者です。一般にはあまり知られていないと思いますが、我々潔癖症の人間にとっては神様的存在! そういったわけでトップに掲げさせていただいております。
ここでは、尊敬すべきセンメルヴェイス先生について紹介したいと思います。
奇遇なことに、今日 (2020年3月20日) の Google Doodle がセンメルヴェイス先生の紹介でした。
https://www.google.com/doodles/recognizing-ignaz-semmelweis-and-handwashing
「手洗いが命を救う」ことを発見
センメルヴェイス先生の業績は、「医者が産婦の検査をする前に手をさらし粉で洗浄することで、産婦が産褥熱に罹る確率を大幅に下げることができる」ことを発見したことです。
第一産院へは絶対に行きたくない!
センメルヴェイスの着任した1846年当時、ウィーン総合病院には第一産院と第二産院の2つの産院がありました。この2つの産院は、産婦の死亡率に歴然とした差がありました。次の表は、2つの産院の死亡率の比較表です。1846年を見ると、第二産院が2.8%なのに比べ、第一産院は4倍以上の11.4%にも達しています。
ちなみに、イギリスのダブリン産科病院の1833〜1849年の死亡率は平均1.48%でした (これもセンメルヴェイス調べ)。ですので、時代背景を鑑みても、第一産院の死亡率は極めて高いのです。
第一産院のこの状況は、世間にも知れ渡っており、妊婦たちは医師の足にすがりついてでも、第一産院へは絶対に回さないでほしいと懇願したといいます (これもセンメルヴェイス調べ)。
表1. ウィーン総合病院第一産院および第二産院における産褥熱による死亡者数および死亡率 (センメルヴェイス調べ)
ちなみに、イギリスのダブリン産科病院の1833〜1849年の死亡率は平均1.48%でした (これもセンメルヴェイス調べ)。ですので、時代背景を鑑みても、第一産院の死亡率は極めて高いのです。
第一産院のこの状況は、世間にも知れ渡っており、妊婦たちは医師の足にすがりついてでも、第一産院へは絶対に回さないでほしいと懇願したといいます (これもセンメルヴェイス調べ)。
表1. ウィーン総合病院第一産院および第二産院における産褥熱による死亡者数および死亡率 (センメルヴェイス調べ)
第一産院で何が起きているのか?
センメルヴェイスは、自分の勤める第一産院の産婦の死亡率が高いことにとても心を痛めていました。第一産院と第二産院のあらゆる違いを洗い出し、原因を突き止めようと考えました。院内の過密度合や気候、果ては宗教に至るまで、様々なことを比較検討しました。その中で、唯一の大きな差異は働いている人間でした。
ウィーン総合病院の産院は医学生の教育機関を兼ねており、1833年の第二産院開設から1841年までは、両産院で医学生が勉強していました。しかし、1841年に第二産院は見習い助産師のみ勉強することになり、医学生は第一産院で働くことになりました。センメルヴェイスは、このことが死亡率の差異に関係しているのではないかと思いはじめました。
そう思っていた矢先の1847年3月、センメルヴェイスの同僚で友人のコレチカが産褥熱に似た症状で亡くなります。産褥熱遺体の解剖を学生に指導していたときに、メスで指に傷をつけてしまった後のことでした。このときセンメルヴェイスは、産褥熱の原因は産婦の体内のバランスの崩れによるものではなく、何らかの汚染によるものなのではないかと考えました。前者であれば産婦ではない男のコレチカが発症するとは思えません。産褥熱遺体に触れることで、何らかの微粒子が手に付着し、これがコレチカの傷に入ってコレチカの命を奪ったり、他の産婦の検査のときに手から産婦に付着して、産婦の命を奪ったりしているのではないかと考えました。
第一産院の医学生は遺体解剖をしますが、第二産院の見習い助産師は解剖はしません。きっとこれが原因に違いないとセンメルヴェイスは思いました。
さらし粉とは、次亜塩素酸カルシウムのことで、塩素の漂白作用を残したまま固体で保管できるものとして、1799年に開発されていました。しかし、細菌はまだ発見されていないので、殺菌作用ももちろん知られていません。この状況でさらし粉に注目したセンメルヴェイスの慧眼には驚きです。
1847年5月から、この手洗いルールを第一産院に導入します。次のグラフは、手洗いルールを導入した前後で、死亡率がどのように代わったかを示したものです。
手洗いルール導入前、平均10.5%だった死亡率が、導入後は3.1%まで下がります。その後、ちゃんと手洗いをしない医学生に対してそれを許さないよう管理を厳格化しますが、それにより1.7%まで下がりました。1848年3月と8月は、死亡者0人を達成しています。
センメルヴェイスの考えは、当初は同僚や教え子を通し、後々本人からも論文や書籍で発表されていきます。しかし、医学界の反応はひどいものでした。ウィーン総合病院のセンメルヴェイスの後任はこっそり手洗いを継続していたようです (死亡率の低さが継続していることから分かります) が、全体としてはセンメルヴェイスの説はまったくといっていいほど受け入れられませんでした。
センメルヴェイスは失意の中、鬱になり酒に溺れ、精神病院に入り、そこで虐待を受けて、その傷が悪化して亡くなるという、悲惨な最期を迎えることになります。
ウィーン総合病院の産院は医学生の教育機関を兼ねており、1833年の第二産院開設から1841年までは、両産院で医学生が勉強していました。しかし、1841年に第二産院は見習い助産師のみ勉強することになり、医学生は第一産院で働くことになりました。センメルヴェイスは、このことが死亡率の差異に関係しているのではないかと思いはじめました。
そう思っていた矢先の1847年3月、センメルヴェイスの同僚で友人のコレチカが産褥熱に似た症状で亡くなります。産褥熱遺体の解剖を学生に指導していたときに、メスで指に傷をつけてしまった後のことでした。このときセンメルヴェイスは、産褥熱の原因は産婦の体内のバランスの崩れによるものではなく、何らかの汚染によるものなのではないかと考えました。前者であれば産婦ではない男のコレチカが発症するとは思えません。産褥熱遺体に触れることで、何らかの微粒子が手に付着し、これがコレチカの傷に入ってコレチカの命を奪ったり、他の産婦の検査のときに手から産婦に付着して、産婦の命を奪ったりしているのではないかと考えました。
第一産院の医学生は遺体解剖をしますが、第二産院の見習い助産師は解剖はしません。きっとこれが原因に違いないとセンメルヴェイスは思いました。
手を洗おう!
産褥熱遺体から産婦へ、医学生が「謎の死体微粒子」を運んでいるのだとしたら、産婦に触れる前に手を洗えばいいのではないかとセンメルヴェイスは考えました。ただ水洗いするのではなく、解剖台の臭いを消すのに使っていたさらし粉を使うのが、死体微粒子を除去するのに都合が良いのではないかと考え、さらし粉を使うことにしました。さらし粉とは、次亜塩素酸カルシウムのことで、塩素の漂白作用を残したまま固体で保管できるものとして、1799年に開発されていました。しかし、細菌はまだ発見されていないので、殺菌作用ももちろん知られていません。この状況でさらし粉に注目したセンメルヴェイスの慧眼には驚きです。
1847年5月から、この手洗いルールを第一産院に導入します。次のグラフは、手洗いルールを導入した前後で、死亡率がどのように代わったかを示したものです。
グラフ1. 手洗いルール導入前後の死亡率比較 (センメルヴェイス調べ)
その後のセンメルヴェイス
1848年革命などの影響もあり、センメルヴェイスはウィーン総合病院を追われるように退任して、いくつかの病院を転々とします。行く先々の病院で、やはり手洗いにより産褥熱を駆逐していきます。センメルヴェイスの考えは、当初は同僚や教え子を通し、後々本人からも論文や書籍で発表されていきます。しかし、医学界の反応はひどいものでした。ウィーン総合病院のセンメルヴェイスの後任はこっそり手洗いを継続していたようです (死亡率の低さが継続していることから分かります) が、全体としてはセンメルヴェイスの説はまったくといっていいほど受け入れられませんでした。
センメルヴェイスは失意の中、鬱になり酒に溺れ、精神病院に入り、そこで虐待を受けて、その傷が悪化して亡くなるという、悲惨な最期を迎えることになります。
センメルヴェイスに学ぶ
現在は、センメルヴェイスの名誉は回復されており、病気を避けるには清潔にすることが大切だということを説いた偉人として、ナイチンゲールと並び評されています。
新型コロナウイルスが世界的大流行となっている今日、ワクチンも抗ウイルス薬も開発されていない病原体への対処として、「手洗いが命を救う」センメルヴェイスの精神に立ち戻るべきときかと思います。
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